
数年前、私は原因不明の大病を患いました。
皮膚は荒れ、体中に激痛が走り、何週間も病床に伏していた毎日。
「この苦しみはいつまで続くのか……」
当時の私には、全く見当がつきませんでした。
しかし、そのような苦しみを通して、たくさんの悟りを得ることができました。
後になってこの出来事を思い返したときにも、いまだに悟ることがあります。
結果的に私は、この苦しみの期間に人生を深く見つめ直し、
御言葉を学び、たくさん祈ることとなりました。
「神様、この苦しみの原因と解決法を教えてください」
このように、色んなことを切実に祈りました。
病のときに、私は聖書のヨブ記をよく思い出しました。
ヨブは、原因の分からない激しい病と苦難に見舞われた人物です。
突然、財産を失い、病に打たれました。
聖書には、サタンがヨブに苦難を与えることを神様が許されたと書かれています。
敬虔なヨブは、
自分がどうしてこのような苦難を受けているのか理解できませんでした。
それでも神様を恨まないで、最後まで神様に向き合いました。
そして、苦難の後には、以前にも増して豊かな祝福を与えられました。
私は病床に伏しながら、このヨブの姿に思いを馳せていたのです。
そして、自分自身の病の体験を通して、一つのことを悟りました。
「神様には、全てを奪うことが可能なのだ。」
自分の健康さえ、自分の力では守りきれない。
私たちが自分のものだと思っているものも、
決して自分の力だけで保てるものではないのです。
そして、次の瞬間、私はもう一つのことに気づきました。
「全てを奪うことが可能なのであれば、全てをお与えになることも、当然可能なのだ。」
そもそも、私たち人間も、この天地万物も、全て神様がお造りになったものです。
私たちが自分のものだと思っているものも、
本来は全て神様のものであり、神様の御手の中にあるのです。
私たちは、病気だけでなく、思いどおりに進まない人生の中で、
「もうこれ以上、どうすることもできない」
と感じることがあります。
自分なりに努力しても道が開けず、どれだけ考えても答えが見つからない。
そんなとき、私たち人間は目の前の状況だけを見て、
これから先の可能性まで閉ざしてしまいがちです。
しかし、私は学びました。
文字どおり、神様に不可能はない。
このことを深く悟ったとき、その悟りが私の祈りを変え、日々の生き方を変えていきました。
私は、生活の中でも、以前よりもっと神様の力を信じて祈り求めるようになりました。
大きな祈りだけでなく、小さな祈りも信じて祈るようになりました。
進むべき道に迷ったときや、日常で判断に悩んだときにも、神様に尋ね、答えを求めるようになりました。
そうすると、そうした祈りにも、以前より早く答えをいただけると感じることが増えていったのです。
ヨブ記を読みながら、私はさらに考えました。
ヨブは、あれほどの苦難を経験したからこそ、
神様の偉大さを深く悟ったのではないだろうか。
もちろん、ヨブが悟ったことは、それだけではなかったと思います。
私自身も、この病を通して、他にもさまざまな悟りをいただきました。
しかし、「神様には不可能がない」ということを、
頭で知るだけでなく、心から信じられるようになったこと。
これは、私にとって何にも代えがたい祝福でした。
もし聖書がなかったら、
私は原因不明の大病にこれほど深い意味を見いだすことはできませんでした。
また、病に倒れる中で「耐えられない試練はない」と信じることもできませんでした。
しかし、ヨブに与えられていなかった聖書が、私には与えられていました。
聖書には、次のような聖句もあります。
神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(コリントの信徒への手紙一 10章13節)
苦しみの中にいた私にとって、「神様がいらっしゃる」ということが大きな希望でした。
体中の痛みに耐え、床に伏していたときも、私の心から希望の光が消えることはありませんでした。
その希望があったからこそ、必要以上に自暴自棄になることなく、
心の平安を保ちながら、病の日々を乗り越えることができたのだと思います。
もし、あのときの私が御言葉も祈りも知らなかったとしたら……。
そのように想像すると、今でも恐ろしくなります。
それほどまでに、あの苦しみの中で御言葉と祈りが与えられたことは、私にとって大きな支えだったのです。
もっとも、私はヨブ記に書かれている神様からの真のメッセージを、自分ひとりで見出せた訳ではありません。
というよりも自分ひとりでは、きっと何十年かけても永遠に分かりませんでした。
私は、以下の記事を読んでいたので、ヨブに起きた試練の意味も正しく理解することができたのです。
(ヨブが試練を受けた理由は、以下の記事に詳しく書かれています。)
RAPT有料記事83(2016年7月9日)強い人だけが存在できる。練達された人だけが祝福を受けられる。
RAPT有料記事84(2016年7月11日)寒い冬を耐え忍び、春が来たときに機会をつかむ人。
RAPT有料記事111(2016年10月15日)神様の御心にかなった祈り。
RAPT有料記事294(2018年7月16日)どんな試みの中でも最後まで主を愛し抜いた者だけが、サタンに文句を言われることなく主と愛を成せるようになる。
だから、今の時代を生きる私が幸せなのは、すでに聖書が与えられているからだけではありません。
このように、いま御言葉を毎日のように神様から授かり、
人類に向けて伝えてくださっている使命者が奇跡的に遣わされていることです。
そして、この祝福は、私一人だけのものではありません。
この時代を生きる全ての人に、神様の御言葉をタイムリーに知り、
そこから正しい生き方を得る機会が与えられているのです。
私は少しずつ分かるようになりました。
神様は、試練を通して私たちを練り清め、
より大きな祝福を受けられる器へと成長させてくださるのだということを。
人は、何事もなく過ごしているときには、なかなか深く考えようとしないものです。
しかし、本当に苦しい状況に置かれたとき、自分の力の限界を知り、真理を求めることがあります。
およそ練達というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。(ヘブライ人への手紙 12章11節)
この聖句にもあるように、試練の最中には喜ばしいと感じられません。
あのときは、ただ苦しみから逃れたいとも願っていました。
しかし、今振り返ると、
あの経験を通して初めて深く理解できた御言葉がありました。
以前は頭で知っていたことが、自分自身の経験を通して、
少しずつ心に刻まれていったのです。
これから先、どのような試練が訪れるのか、私には分かりません。
あの苦しみを思い出すと、今でもつらくなります。
だから、もう二度とあのような苦しみを経験したくないというのが、正直な気持ちです。
それでも、あの苦しみの中で得た悟りは、今も私の信仰の支えになっています。
たとえ自分にはどうすることもできない状況に直面しても、神様に不可能はない。
神様には、全てを奪うことも、全てを与えることも可能です。
だから、どのような状況に置かれても神様を信じて、
人類に用意された祝福を祈り求めていきたいと思っています。
試練を与えてくださり、より大きな祝福を与えようとしてくださる神様に、
心から感謝します。
RAPT有料記事1059(2026年10月12日)私たち義人が不利益を被ったり、理不尽な思いをしたときでも神様を愛しつづけるなら、サタンも恐れを成して逃げていくしかない。