
「これでいいのだろうか。」
送信ボタンを押す直前、私はほんの少し躊躇していました。
旧友たちとのグループLINEで、ある依頼についてやり取りをしていたときのことです。
私は、その依頼を断ろうとしていました。
それまで、他の人たちは「都合が合わない」「別の用事がある」といった理由を挙げて断っていました。
けれど、私は少し違う理由を伝えました。
私としては、正当だと思える理由でした。
でも、誰もそれまで、そのことをはっきりとは言っていませんでした。
だからこそ、送信する直前になって、少しだけ迷ったのです。
「ここまで言ってしまって、大丈夫だろうか。」
そんな思いがよぎりました。
そのとき、私は心の中で短く祈りました。
「正しく判断できますように…」
そして、もう一度、自分の考えを御言葉(神様からの啓示)に照らしてみました。
すると、不思議なことに、さっきまであった躊躇いが消えていきました。
私は、そのまま送信しました。
すると、反論する人は誰もいませんでした。
それどころか、私の後に続いて、同じようにその依頼を断る人が出てきました。
そのとき、私は改めて思いました。
「私は以前よりも、物事を早く判断できるようになった。」
それは、単に決断力がついたからではなく、
「何を基準に判断するのか」が、以前よりもはっきりしたからなのだ、と。
御言葉を学ぶようになって、私の中に一つの大きな変化がありました。
判断するときの基準が、シンプルになったのです。
世の中には、たくさんのルールがあります。
人間関係では、「本音と建て前」という言葉もあります。
表向きには正しいように見えても、実際には相手への配慮や、その場の空気など、
さまざまなものを考えながら判断しなければならないことがあります。
だから、正しいと思っていることでも、
「ここまでは言っていいのだろうか。」
「みんなはどう思うだろうか。」
「わざわざ自分が言わなくてもいいのではないか。」
と迷ってしまいます。
一見すると、世の中にはたくさんの判断基準があるように見えます。
けれど、実際には、その基準はとても曖昧なのかもしれません。
それに対して、御言葉が示してくださる基準は、私にとって非常にシンプルです。
善なのか、悪なのか。
正しいのか、正しくないのか。
御言葉を基準にしない限り、現実のすべての出来事が簡単に二つに分けられることはありません。
しかし、御言葉を基準にして物事を見るようになると、表面的な事情に振り回されず、その奥にある本質を考えられるようになってきました。
だからこそ、日常の小さな判断も、以前より正確に、そして早くできるようになったのだと思います。
今回のグループLINEでの出来事も、今振り返ると、そのことを実感した出来事でした。
あのとき、もし周囲の反応ばかりを気にして、言うべきことを言わなかったら。
その場では波風が立たず、無難に終わったかもしれません。
けれど、後になって、どこかで困ることになっていたかもしれません。
少し迷ったとしても、正しいと思うことを、正しい基準に照らして判断する。
そして、必要なことは、勇気を持って一歩踏み出す。
その大切さを、今回改めて学びました。
思えば、私が以前よりも迷わず判断できるようになったのは、
自分の中に、変わらない基準を持てるようになったからです。
世の中の状況や、人の言葉や、その場の空気は変わります。
けれど、御言葉は、私にとって変わらない判断の軸となってくださいます。
そんな基準を与えていただけたことを、私は本当に恵まれていることだと感じています。
これからも、御言葉を与えてくださることに心から感謝しながら、
一つひとつ学び、神様の判断基準をもっと自分のものにしていきたい。
そして、迷ったときにも、正しいことを正しいと判断できる人になりたい。
そのように切に願っています。