
「神様にとって、私ひとりに、いったいどれほどの意味があるのだろう。」
――そんな否定的な考えがどこからともなく湧いてくることがありました。
信仰を持った私にとって、神様は果てしなく大きな存在に見えます。
その神様が、「私を愛しなさい」という御言葉を、人類に向けて伝えてくださっています。
果てしなく大きな存在にとって、
限りなく小さな一人の私が神様を愛したところで、
取るに足らないのではないか。
そう思ってしまうときがありました。
ところが、そんなとき、神様は私をいくつかの御言葉へと導いてくださり、
「あなた一人の意味が大きい」ということを教えてくださいました。
「ペットの犬には主人の愛の全てを理解できない――
それと同じように、私たちも神様の愛を理解できていないのではないか…」
神様の愛が分からなかったのは、神様の愛が小さかったからではなく、
私自身がその大きさを理解できていなかったからなのだと思いました。
御言葉によって私は、神様の愛の大きさと、
その愛を理解できずにいた自分の姿が、
はっきりと見えてきたのです。
そして、御言葉を読むたびに、少しの間、時が止まったような思いがしました。
神様は常に私たち人間と愛を成したいと思って、天地万物を作り、
私たち人類を様々な形で祝福してきてくださった。
それだけでなく、こうして毎日のように御言葉をくださっている――
それなのに、そんな切実なまでの神様の愛をまるで分かっていなかったことに、
私は気づいたのです。
「神様が唯一、思い通りに手に入れることのできないもの
――それが、人間の愛なのではないか。」
このように思いました。
私は、神様の立場に立って、想像してみました。
「天地万物を思いのままに所有されている神様は、これ以上、何を求めるだろうか…」
たとえ有り余るほどの「富」や「力」があっても、
最後に求められるものは、やはり「愛」なのではないか――私はそう思いました。
そして、
「もし人間が、神様の命令通りにしか愛せない存在だったら…」
と想像しました。
そうすると、「命令された愛は、本当に愛なのだろうか」という思いが湧いてきました。
私自身、プログラミングされた通りのロボットの「愛」を与えられても、
嬉しくはありません。
愛さない自由も、愛する自由もある中で、それでも愛する。
その愛に、本当の価値があるのだと――
だからこそ神様は、人間に自由意志をお与えになったのだと分かりました。
そのことに関して、私は、子供の頃のある体験を思い出しました。
「愛」を押しつける祖母とのやり取りです。
その祖母は、孫やペットを自分の部屋に閉じ込める癖のある人でした。
もっと長い時間一緒にいたい、もっと自分に懐いてほしい――そんな思いからだったのだと思います。
しかし、私は、子供心にこう感じていました。
「体は閉じ込められても、心は閉じ込められないのに…」
あのとき、愛は縛ることができないものだと、
知らないうちに学んでいたのかもしれません。
結局、その祖母のことは心から好きにはなれませんでした。
いま振り返ると、愛を強制されることで、
愛を感じることができなかったのだと思います。
このような体験を思い返した私は、一つの結論に至りました。
愛は、誰からも縛られない――
誰かに縛られた瞬間に、それはもう愛ではない。
そして、全知全能の神様も、愛を強制することはなさらない。
だからこそ、愛は尊く輝いている。
また、このようにも浮かんできました。
仕事なら、誰かに代わってもらうことができる。
けれど、自分の代わりに愛してもらうことはできない。
だから、愛することは自分が自分らしく「生きている証」なのだと。
誰を愛するのか。
どのように愛するのか。
その選択の積み重ねによって、
自分という人間そのものが形作られていくのではないかと――
このような導きをいただいた今、私は、以前とは違う思いで神様を見ています。
神様は、一人一人の人間を、かけがえのない存在として創造してくださったのだと思います。
神様は、愛を強制されない。
だからこそ、私が自分の心から神様を愛そうとするならば、
その生まれたばかりの愛を、喜んでくださる。
そう思えるようになったとき、私は、
「たった一人の私だからこそ、私自身にしか差し出せない愛がある。」
と気づくことができました。
愛は、誰にも縛られない。
何からも支配されない。
愛は、自由だからこそ、尊く輝いている。
そのことを教えてくださっている神様に、心から感謝しています。
RAPT | RAPT有料記事907(2025年2月22日)神様が伝道したいと思っているのに、私たちが伝道しなくて、どうして神様と心一つにして愛し合うことができるだろうか。