
私は、ひょんなことから「伝えられない」というもどかしさを知りました。
しかしその後、これは決して偶然ではなく、神様が導いてくださったことだとわかったのです。
先日、とあるニュースを耳にしました。
事故によって意識不明の重体と診断された人が、後に意識を回復したというニュースです。
実は、「意識不明」と診断されていた間も、病室での医師や家族の会話が聞こえていたというのです。
このニュースを聞いたとき、想像しました。
もし、自分のすぐ傍で「安楽死」が議論されていたら――。
意識はあるのに、何一つ伝えられない。
その「もどかしさ」は、どれほどのものだろうか、と。
さらに私は、目を瞑って、その状況を想像してみました。
――いま私は、確かに意識を持っている。それなのに、手も足も口も、何も動かせない…
周囲の明るい雑音とは裏腹に、独り、取り残されたような暗闇。
次第にバクバクと脈を打ち始める鼓動と、じんわり滲んでくるような嫌な汗。
しばらく想像しただけでも、耐えられませんでした。
私は思わず目を見開き、自分の手のひらを見つめました。
そして、自由に動かせることに安堵したのです。
当たり前に思っていたことが、実は、当たり前ではないかもしれない――
そのように考えさせられた出来事でした。
このとき以降も、ふとした拍子に何度かこのニュースを思い出しては、いま与えていただいている健康を神様に感謝することがありました。
それから何週間も経った日のことです。
いつも読み返している御言葉のなかに、ひと際、目に留まる箇所が見つかりました。
それは、神様は肉体を持っていないゆえに、この世に預言者が現れない時代には、伝えたいと思うことを人類に伝えられなかったという箇所でした。
以前この箇所を読んだときは、ここまで目に留まりませんでした。
しかし、今回その御言葉を読んだ瞬間、胸の奥に、言葉では説明できない切なさが流れ込んできました。
「伝えたいのに、伝えられない」
その神様のもどかしさが、ほんの少しだけ分かった気がしたのです。
自分の意思を伝えられない「悔しさ」や「もどかしさ」を疑似体験していたからです。
イエス様が遣わされて神様の愛を人類に伝えられるようになったときの神様の喜び――
そして現在、使命者が遣わされ、神様の愛を再び伝えられる喜び――
これらが、少しだけ私の心にも伝わってきたような気がしました。
だから、この貴重な神様の愛のメッセージが詰まった聖書と御言葉をもっと学び、もっと悟りたいと願いました。
また、これと同時に、私は「祈り」を知れたことにも感謝しました。
たとえ誰も気持ちを分かってくれないような苦境に陥った場合にも、神様だけには自分の心のうちを伝えることができるからです。
そして、神様は切実な祈りを聞き入れてくださり、何らかの答えを与えてくださいます。
それだからこそ、気持ちが伝わっていることが分かります。
「祈り」は、まさに人間業を超越した意思表示の手段でもあると気づきました。
私は今回の出来事を通して、神様は、時に何気ない出来事さえ用いて、私たちに大切なことを教えてくださるのだと感じました。
そして今、
神様の心情をもっと深く知りたい――
以前よりも、そう願うようになっています。
このような気づきへ導いてくださったRAPTブログに、私は感謝しています。
私自身、この御言葉を通して、神様の愛や祈りの尊さを少しずつ知ることができました。
どうか一人でも多くの人が、この恵みに触れられますようにと願っています。
RAPT有料記事587(2021年9月4日)誰でも簡単に主の愛を感じられないし、悟れないから、主は使命者をこの地上に遣わして、主の愛を述べ伝えさせているのだ。