
「神様を愛する資格なんて、自分にあるのだろうか。」
そう思ってしまうときが、何度もありました。
変わりたいのに、変われない。
神様を愛したいのに、自分の心の汚さばかりが目につく。
「こんな自分は見放されても仕方がないのではないか…」
そんな思いに、沈むこともありました。
RAPT有料記事120(2016年11月14日)神様を愛する資格があるのは誰か。本当の愛とは何か。なぜ主の前では多くのものを捨てなければならないのか。
しかし、不思議なことに、そのようなときほど神様は私を放っておかれませんでした。
祈る中で、心を慰めてくださることもありました。
また、あるときは、何年も心の奥にしまい込まれていた記憶を突然思い出させてくださいました。
それらの記憶の中には、自分でも忘れていた「正義を愛したい」という心や、真っ直ぐな心がありました。
神様は、それらの記憶を通して、失いかけていた初心を取り戻させてくださったのです。
私は、このように絶妙な出来事を体験するたびに、
誠に神様は人の心を全て見通しておられ、全てを覚えてらっしゃるのだと感嘆し、感激します。
聖書には、神様に従ったアブラハムが、最愛の息子を神様に捧げようとした寸前で止められる場面があります。
神様を何よりも優先したアブラハムは義と認められ、その後大いに祝福されます。
私は以前、人の心を見通しておられる神様が、なぜ彼にそのような試験を与えられたのか疑問でした。
しかし、今は分かる気がします。
神様は、彼の心をご存じなかったから試されたのではありません。
それは、「神様への愛を、アブラハム自身が忘れないため」だったのです。
もし、心の中だけの決意だったなら、時とともに薄れてしまったかもしれません。
しかし、行動として残したことで、その愛は消えない証となりました。
神様は、人の弱さをご存じだからこそ、愛を忘れないよう導いてくださる――そのとき、私は改めて悟りました。
自分はなんと小さい存在なのだろう。
そして、その小さな私をここまで導いてくださる神様の愛は、なんと大きいのだろう。
そう思わずにはいられませんでした。