
何度、「自分にはできない」と落ち込んだことか分かりません。
私は、それを謙遜だから仕方がないと思っていました。
しかし、御言葉(神様の啓示)を学ぶ中で、むしろそのような心の奥には、
余計なプライドや思い込み、高慢さが隠れていると気づいたのです。
幼い頃の自分は、できないことばかりでした。
自転車に乗れない。漢字が読めない。縄跳びができない。将棋ができない。
だから、いちいち壁にぶつかる度に落ち込んでいられなかった――
毎日、できないことに挑みながら必死に生きていました。
自転車に乗れるようになったときの喜びを、今でも覚えています。
何度も乗ろうとして転びました。
膝を擦りむいて泣きそうになりながら、それでもまたペダルに足をかけました。
あの頃は、「できなくて当たり前」だったからです。
一方、大人になると、私は失敗しそうなことを無意識に避けるようになっていました。
「できそうなこと」だけを選び、「できないこと」からは距離を置く。
そんな生き方が、いつの間にか当たり前になっていたのです。
その後、私は信仰を持ちました。
すると、それまでの人生で身につけてきた「要領の良さ」は通用しないことが分かりました。
なぜなら、神様は心の奥の奥まで見通されているからです。
神様は、自分でも気づかなかった心の問題を、
さまざまな出来事を通して示してくださいました。
そのたびに、自分の本質と向き合わざるを得ませんでした。
聖書や御言葉の基準で自分を見つめるたび、心の汚さや愚かさが浮き彫りになりました。
「変わりたいのに、変われない…」
そんなもどかしさに、心がいっぱいになりました。

ところが、御言葉を学ぶうちに、一つのことに気づかされました。
「どうして私は、子供のように『できなくて当たり前』と思えなくなってしまったのだろう。」
その答えは、思いがけないものでした。
いつの間にか私は、「できるはず」と思うようになっていたのです。
あるいは、「できない」ことを認めたくなくて、ただ逃げていただけかもしません。
でも、本当に恥ずかしいのは、「できない」ことではなく、そこから逃げてしまうことでした。
子供の頃は、「できなくて当たり前」だったから何度でも挑戦できました。
けれど大人になった私は、「できるはず」という思い込みに縛られ、
思い通りにならないたびに、心が折れていました。
そのとき初めて、自分を縛っていたものの正体に気づいたのです。
はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
(マタイによる福音書18章3節)
イエス様がこのようにおっしゃった意味が、少しわかった気がしました。
たとえ肉体は大人でも、信仰を持ち始めた私の霊はまだ子供のようなものだと、
御言葉は教えてくださいます。
また同時に、子供のように縋りついて祈れば、
全能の神様が私たちの心を変えてくださると約束されています。
私は、この御言葉に何度も勇気づけられ、
再び前を向いて歩けるようになりました。
だから、自分がどれほど足りなくても、
もう落ち込んで立ち止まる必要はないと思えるようになりました。
今でも、自分の足りなさに気づいて落ち込みそうになることがあります。
それでも、そのたびに思い出します。
「私の霊はまだ子供。だから、できなくて当たり前。」
神様は今日も、できない私を見捨てることなく、一歩ずつ育ててくださっています。
だから私も、神様を信じて、一歩ずつ歩み続けたいと思います。
RAPT有料記事631(2022年2月26日)霊も肉も何の不調もない状態が正常であり、そのような状態で生きてこそ、肉体も本来の機能を発揮して、神のような超越的な次元で生きることができる。
RAPT有料記事481(2020年7月11日)高慢な者は主から怒りを買って裁かれるが、心からへりくだって主に祈り求める者は主から高められて栄光を受けるだろう。