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もう強がらなくてもいい

投稿日:2026-08-06 更新日:

私は長い間、「自分はできる」と言い聞かせてきました。

当時は、それが前向きに生きる秘訣だと思っていました。

でも、いま振り返ると、それは本当の強さではありませんでした。

自分の弱さを見せないための、心のガードだったのです。

野生の動物は、傷ついても弱みを見せないそうです。

弱さを見せれば、かえって、敵に狙われるからです。

人間社会も、どこか似ているのではないでしょうか。

スポーツでも仕事でも、自分の弱点は隠し、強みを見せようとします。

私が外資系企業で働いていた頃、

会議では誰もが自分の成果を積極的にアピールしていました。

「私はこれができます」

「これは私がやりました」

そう主張することで、さらなる成長の機会を自らつかんでいく。

そんな文化でした。

最初は抵抗ありましたが、次第に私もその文化に慣れました。

実力を磨く一方で、自分を大きく見せることも覚えていったのです。

そんな私が、あるブログをきっかけに御言葉や聖書に出会い、信仰を持つようになりました。

そこから学んだことは、それまでの私とは正反対でした。

自分を大きく見せることは、推奨されるどころか、罪だったのです。

御言葉を学び、神様の前でありのままの自分と向き合ううちに、

私は少しずつ、自分自身と人生をより深く見つめられるようになっていきました。

すべてを見通される神様の前で、余計な飾りは必要ありません。

一つひとつの飾りが剥がれ落ち、最後には、

本当の自分だけが残っていくような感覚がありました。

そして、裸の心になって祈るとき、

それまで気づかなかった心の問題が、少しずつ見えてきました。

それは、神様が私に示してくださったものでした。

良かれと思ってしたことが、実は「人からの評価」を気にした行動だった。

誰かのためと思っていた行いにも、誰かから認められたいという思いがあった。

そんなことに気づかされるたび、私は自分の心の汚れを認めざるを得ませんでした。

聖書や御言葉の基準で自分を見つめるほど、

嫉妬や偽善といった、自分の中にある汚れが浮き彫りになっていきました。

そして、その醜さに気づくたび、私は心から恥ずかしく思い、

「変わりたい」

と、切望するようになりました。

そうして何年も御言葉を学ぶうちに、あるとき私は気づきました。

「どうして私は、自分の醜さを認められるようになったのだろう」

以前の私は、傷つくことを恐れ、本当の自分に向き合えなかった。

それなのに今は、自分の中の醜さからも目をそらさず、認めようとしている。

それができるようになった理由は、自分の努力ではありませんでした。

少しずつ神様からの愛を、信じられるようになったからだったのです。

私は、それまで、そんな深い愛があるとは知りませんでした。

神様は、私の欠点を見るのではなく、呼び求める私を見てくださいました。

その愛を感じたからこそ私は目をそらさずに、見つめられるようになりました。

私は、いつも誰かから必要とされたいと思っていました。

必要とされている限り、自分には価値がある――

そんなふうに、思っていたのだと思います。

ところが、人の心は、いつの間にか揺れ動くものです。

そんな私にとって、決して揺らぐことのない神様の愛は、

何にも代え難い安心となりました。

私は無意識のうちに、

「欠点だらけの自分では必要とされない」

という怯えを抱えていたのだと思います。

だから本当の自分と向き合えず、

むしろ弱さを見せないように、強がりながら生きていました。

自分でも気づいていませんでした。

でも、本当は「愛されている」という実感が足りなかったのだと思います。

このようなイメージが浮かびます。

北風が吹きつけるような厳しい世の中で、

私は、頑なにファイティングポーズをとり続けていた。

傷つかないように。

弱みを見せないように。

「自分はできる」と、奮い立たせながら。

けれど、そんな私の心を変えたのは、強い風ではありませんでした。

太陽のような愛でした。

温かな光を浴びるうちに、私は、ゆっくりと心のガードを下ろしていったのです。

本当の自分と向き合うこと。

自分の弱さや欠点を、素直に認めること。

それなくして、人は本当の意味で変わることはできない。

そして、変わらなければ、いつまでも本当に弱いまま。

そのことを、私は学びました。

もう、強がらなくてもいい。

傷つかないために、弱さを隠さなくていい。

揺らがない愛を信じ、今の自分を認めること。

それこそが、私にとっての本当の強さなのだと思います。

これからも本当の意味で変われるように、一歩ずつ歩んでいきたいと思います。

RAPT有料記事489(2020年8月10日)主の愛を受けて生きる人は、主が必要なものを全て与えてくださると信頼しているので、本能と欲望の赴くままに生きる必要がない。

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