
私は長い間、「自分にはできる」と言い聞かせながら生きてきました。
当時は、それが前向きに生きる秘訣だと思っていました。
でも今振り返ると、あれは「自信」ではありませんでした。
本当は、自分の弱さを見せないための心のガードだったのです。
野生の動物は、傷ついても弱みを見せないそうです。敵に狙われないためです。
人間社会も、どこか似ているのではないでしょうか。
スポーツでも仕事でも、自分の弱点は隠し、強みを見せようとします。
私が外資企業で働いていた頃、会議では誰もが自分の成果を積極的にアピールしていました。
「これは私がやりました。」
「私はこれができます。」
そう主張することで、さらなる成長機会を自ら掴まなければいけない仕組みでもありました。
最初は抵抗がありましたが、次第に私もその文化に慣れていきました。
実力を磨く一方で、自分を大きく見せることも覚えていったのです。
その後、私は一つのブログに出会い、信仰を持ちました。
その信仰の世界では、逆に、自分を大きく見せることは善くないことでした。
私は御言葉を学び、そして、祈りという神様との対話を繰り返すうちに、自分のことも、人生のことも、よりよく見えるようになっていきました。
全てを見通される神様の前で、余計な飾りは削ぎ落され、自分の本質だけが残っていくような気がしたのです。
そして、裸の心になって祈り続けたときにこそ、自分でも気づかなかった心の問題が少しずつ見えてきました。
それは、神様が示してくださったものでした。
良かれと思ってしたことが、実は自分の評価を気にした行動だったことに気づかされたこともありました。
だから、自分の中に利己心があることを認めざるを得ませんでした。
このような導きによって欠点に気がついたとき、私は心から恥ずかしいと感じ「変わりたい」と切実に祈りました。
聖書や御言葉の基準で自分を見つめるたび、利己心や高慢といった汚さが浮き彫りになっていったからです。
何年も御言葉を学ぶうちに、私は気がつきました。
「どうして、自分の醜さを認められるようになったのだろう。」
その答えは、自分の努力ではありませんでした。
神様から愛されていることを、少しずつ確信できるようになったからです。
私はそれまで、そのような深い愛があるとは知りませんでした。
神様は欠点ではなく、その愛に応えようとする私を見てくださっていました。
だから私は、自分の弱さから目をそらさずに、見つめられるようになりました。
人の感情はときに揺れ動くもの――
そんな苦い体験をしてきた私にとって、その絶対の愛は何にも代え難い安心となったのです。
振り返れば、私は「欠点のある自分は愛されない」という怯えをどこかに抱き、
本当の自分と向き合わず、心をガードしながら生きていました。
自分でも気づいていなかったけれど、
それは、本当に愛されているという実感が足りなかったからだと分かりました。
北風が吹きつけるような厳しい世の中で、頑なにファイティングポーズをとり続けていた私の心は、太陽のような愛を浴びたことで初めてそのガードをおろした――
そのようなイメージが浮かびます。
あのときから少しずつ、心のガードは解かれていきました。
本当の自分と向き合い、素直に認めなければ、人は本当の意味で変わることはできない――
そのことを私は学びました。
今も神様は、愛をもって私の心を少しずつ変え続けてくださっています。
その愛を信じて、これからも歩んでいきたいと思います。
RAPT有料記事489(2020年8月10日)主の愛を受けて生きる人は、主が必要なものを全て与えてくださると信頼しているので、本能と欲望の赴くままに生きる必要がない。